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いのちの博物館だより

2020.09.09

『麻布大学いのちの博物館設立の経緯と新入生に伝えたいこと』 名誉学芸員 高槻成紀

 獣医学科の学生に講義での感想文を書いてもらい、力作を紹介しました。
 これを読んで講義担当の先生から、学生が読んだ資料を紹介してほしいという要望がありましたので、以下に紹介させてもらいます。

 私は2015年に本学動物応用科学科教授を定年退職したが、その年の秋に「麻布大学いのちの博物館」が開館した。その設立に関わったので、その前後の経緯と、博物館で紹介した麻布大学の歴史について紹介したい。
 私は2007年から麻布大学に奉職することになったが、その前は東京大学総合博物館にいた。博物館は標本を扱うので分類学研究者が主体であるが、私は生態学者として研究教育をし、何度か展示もした。同時に多くの展示に立ち会い、そのノウハウを吸収した。その経験があったので、本学に来た時、獣医学部棟の1階にあるショーウィンドウのような展示ケースが利用されていないのを見て、もったいないと思った。今は解体されてなくなった5号館(今は芝生になっている獣医学部棟の南側にあった)に標本室があり、多数の標本が収蔵されていた。この標本は展示ケースに入っていたが、無秩序に配列されていた。大学祭の時は市民に解放され、珍しい標本もあるので、興味を持つ人もいたが、それ以上ではなかった。しかし展示にはメッセージ、つまりその標本によって何を伝えるかが必要である。
 そこで私は展示ケースにこれらの標本を選んでメッセージ性のある展示をすることにした。そして「学術展示」と称して、標本によって動物のおもしろさを伝える展示をすることにした。例えば「動物の手足展」では数種の動物の四肢の骨格標本を展示し、同じ骨が生活の違いによって形や長さが違うことを示した。例えばシカの足は指が2本になり中足骨が異様ともいえるほど長いこと、サルの掌では拇指が他の4本と向かい合っていること(対向拇指)などの特殊化は、それぞれ走ること、枝を握ることへの適応であることなどを説明した。
 この展示を見た教員は「へえ、あの標本がこんな展示になるんだ」と驚いたようだった。今でも語り草になっているのは「ロードキル展」である。当時、私は学生と、交通事故で死亡した動物のことを調べていた。相模原市と町田市の清掃局の協力を得て、交通事故で死んだ動物の死体をもらい受けて、胃内容物を分析し、頭骨標本を作成した。交通事故死体であるから頭骨が破損しているものもあるため、当然分類学的な意味での標本としては価値が低い。しかし分類学や形態学のための完璧なタヌキの頭骨ではなく、「交通事故という現象を記録する標本群」を展示することを目的とした展示としたのである。そのために破損した頭骨を含めて、100を上回る頭骨をアクリル台にずらりと並べた。これはなかなかの壮観であった。これを見た人は「こんなに犠牲になっている野生動物がいるのか」という感想を持った。それを知って、まさにメッセージが伝わったと思った。
 展示ケースはエレベータの前にあるので、エレベータ待ちの人が見るようになった。こうした展示を年に3回ほどしていたが、次第に展示を楽しみにする人が増えてきた。
 学長(当時、政岡教授)とは年齢も近く、共通の話題が多かったので、時々学長室にお邪魔していたが、「2015年が麻布大学創立125周年ということで、記念事業をしたいが、ついては博物館はできるだろうか」という質問を受けた。というのは政岡元学長によれば、博物館を持ちたいというのは麻布大学の長年の悲願であったが、これまでは挫折してきた。博物館は無理でもせめて資料館は作ろうということになり、ある程度資料は集めたが、そのままになっているということであった。私はこれまでの学術展示の経験から、展示空間とある程度の事務作業が可能であれば本学らしい博物館は十分にできると答えた。
 しばらくして、博物館設立準備委員会ができ、何度かの会議を重ねて、具体的なビジョンが絞られていった。名前は「麻布大学いのちの博物館」となった。麻布大学の博物館であるから、動物の展示が中心になるので、「いのち」というのはよいし、漢字で「命」と書くよりも「麻布大学」と「博物館」という漢字の間に「いのちの」というひらがなが入ることで柔らかい雰囲気も生まれるので、よい命名であると感じた。
 博物館のために新しい建物を建設する余裕はないので、学生食堂をリフォームすることで可能かどうかを専門家にも検討してもらい、大丈夫だという判断を得た。こうして大学の方針として博物館を作り、開館するのは125周年を記念して2017年の9月とすることが決定した。
 ところが私の定年退職が2015年の3月で、それまでは忙殺された。しかも学生食堂も年度末までは営業をすることになっていた。したがって準備できるのは4月以降ということになり、9月の開館まで実質5ヶ月しかなかった。この間に標本はまだしも、展示の準備をしなければならない。一口に展示といっても、すべきことは山ほどある。建物の改修は業者に任せればよいが、展示内容は私の役割である。何をどう配列するかを決め、展示の解説文を書いて、必要な図なども準備しなければならない。獣医学関係の標本について解説を書くためにはその情報を仕込んで消化しなければならない。それを5ヶ月で行わなければならないのである。
 退職後は休みなく情報収集と執筆に取り組む日々になった。私は物事に集中するタイプで、朝起きてから寝るまでずっとそのことに集中していたのだが、始めてしばらくして心配になってきた。あまり根をつめると、体調を崩すのではないかと考えたのである。もし私が倒れたら開館ができなくなる。それは何としても避けなければならない。そう思い、作業を1日10時間に抑えることにし、意識的に息抜きの時間を取るようにしたのである。
 東大時代から親しくしている展示業者と相談し、およその空間配置を決め、そこに置くケースの大きさやデザインの希望を伝えた。私の大まかなイメージはその人の手にかかるとミリ単位の精度の設計図になって戻ってくる。イメージと違う場合は注文を出し直して修正してもらい、完成していった。
 一方で、ケースごとにテーマを決めて展示物を選び、レイアウトを考えた。そしてその解説の原稿を書いていった。獣医学関係の器具などは分からないので、獣医学科の先生に質問したし、寄生虫や血管系のプラスチネーションなどは学術展示の時に、専門の先生にインタビューしていたので役立った。
 一番時間をかけたのは歴史のコーナーだった。当初はおよその沿革と学術展示をした増井光子先生の紹介をする程度のことを想定していたが、同窓会に伺って同窓会誌を渉猟しているうちにもっと紹介したいことが増えてきた。特に戦後の困難な時代に復興に尽力された中村道三郎先生のことなどを知るにつけ、これはどうしても紹介すべきだと思い直した。展示室ではケースを一つ使い、さらに壁面に沿革を紹介するスペースをとっていたのだが、実際に作ってみるとそれでは収まらず、予定の1.5倍の面積を取ることになった。というのは、同窓会誌の文章の中にいくつかキラリを光るものがあり、ぜひ紹介したいと思ったからである。そういう言葉を年表の中に入れると、どうしてもある程度のスペースが必要になった。
 ただ、この壁面に収まらない内容も多くなったため、「言葉に読み取る麻布大学の歴史」という冊子を作ることにした。心に響く文章を選び、時代ごとに並べるとA4で20ページほどの冊子になった。これを一部の先生や事務の人に読んでもらったら、大いに喜んでもらえたのはよかったのだが、「もっとある」といって新たな資料などを見せてもらうことになった。それらを追加して、最終的には42ページの冊子になった。その中には創立者である與倉東隆先生の紹介、「古川橋」時代(旧麻布にあった地名で当時の学生はそう呼ぶ)の思い出、戦中の学生の思い、そして戦後の復興の苦労などを紹介した。その中で復興に貢献された中村道三郎先生と藤岡富士夫先生のことを特に取り上げた。

 獣医学科の新入生に伝えたいことを書いておこう。麻布大学は長い間「麻布獣医科大学」であり、今でも古い世代にはその方が通りがよい。戦後もずっと「獣医科大学」できた。当時も、そしてことに戦前は、大学生や専門学校の学生はエリートであり、良い意味で誇りを持っていた。大半は男子学生であり、団結力があり、愛校心も強かった。そうした学生たちが昭和20年5月の東京大空襲で母校の校舎が消失した時、それを心配してキャンパスに走って集まった。その道すがら、死体が累々とあったという。そして全てが灰燼に帰したことを知り、呆然と立ち尽くす。その失意はいかばかりであったろうか。世間は「麻布は終わった」と語ったといわれる。学生は教科書もなく、校舎もない状態で、軍の建物などを借りて授業を聞いた。その建物も転々と変わった。
 その時、中村道三郎先生が復活を志し、文字通り献身的に動かれた。進駐軍に直談判をして淵野辺にキャンパス用地を確保し、同窓生に基金を募った。当時は日本人の全てが生きるのにギリギリの生活を送っていた。そのような中で「母校のためなら」とお金を出し合ったのである。そのおかげで新しい校舎ができた。中村先生と一緒に復興に尽力された藤岡先生は、その校舎から富士山を見た時の感慨を記しておられる。文章には書いてはないが涙を流しておられたに違いない。その校舎落成の記念の集まりで、中村先生が「国立大学や他の財力のある私学と違い、わが麻布は同窓生が出した金でこの校舎を作ったのだ」と誇らしく語られたそうだ。私は事務のベテランの方に聞いたが、戦後の経済復興が終わり、大学の財政もようやく落ち着いた時代に、その基金を出した方々の住所を探して、借りていたお金を大学としてお返ししたいと連絡しても、ほとんどの人は「母校のために出したのだから、返してもらうつもりはない」と断られたということだった。私自身は本学の卒業生ではないのだが、博物館の来館者にこの話をする時、先輩たちの母校を思う気持ちにいつも喉の奥が熱くなる。
 皆さんはそのような素晴らしい先人のおかげでこれからの6年間、勉学ができるのだということを覚えておいてほしい。

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